Aemilius Barbula 家


Aemilius Barbula 家の系図
アエミリウス・バルブラ家



 Barbula は、「ちょびひげ、うぶひげ」を意味する。





Quintus Aemilius Barbula
 クィーントゥス・アエミリウス・バルブラ

貴族
祖父:Lucius
父:Quintus
息子:Lucius Aemilius Barbula(281執政官等)
317,311 執政官

 彼はこの家系から初めて官職を得た人物である。
 前317年にガーイウス・ユーニウス・ブブルクス・ブルートゥスと共に執政官。アプリアの一種族であるテアテスと条約を結び、南部ルカニアの町ネルルムをバルブラが占領して、アプリアを完全に征服した(リーウィウス、9.20,21 ;ディオドロス、19.17)。
 彼は同じ同僚と共に前311年に再度執政官となったが、その就任時に両執政官は民衆に対して、元老院の議員の人選についての乱脈ぶりと元老院の堕落を訴えた(リーウィウス、9.30)。
 この年、エトルリア人がローマの国境の要塞ストリウムを攻撃し、バルブラはその方面で指揮を執った。リーウィウスによれば彼はエトルリア軍と決定的でない会戦をおこなった(リーウィウス、9.30-32 ; ディオドロス、20.3)とされているが、公職暦表(ファースティー)は彼がエトルリアに対して勝利してストリウムを救い、凱旋式を挙げたとしている。しかしニーブールはこの公職暦表の記述をこの家系の捏造と考えた。というのは、次の時のエトルリアに対する戦役が、ローマが以前に戦勝者であったようには始まっていないからである。
 モムゼンもまた、「ストリウムは二年の包囲に耐えねばならなかった。その城壁のもとで繰り広げられた激しい戦闘では、ローマ軍がきまって敗北の貧乏くじを引いた。」と記している(『ローマの歴史 I』P345)。





Marcus Aemilius Barbula
 マールクス・アエミリウス・バルブラ

貴族
祖父:Lucius
父:Quintus
(292〜285?) 独裁官

 詳しいことは不明であるが、このマールクス・アエミリウス・バルブラは、アッピウス・クラウディウス・カエクス(307執政官等:アッピア街道などを建設した)、プーブリウス・コルネーリウス・ルーフィーヌス(290執政官等:スラの先祖で、規定量以上の銀を持っていたことから元老院から除名された)と共に、前292年から前285年にかけての中のいずれかの年に独裁官であったと推定されている。前292年とはリーウィウスの第10巻の終わりの年(これ以降第20巻までは現存しない)であり、前285年は公職暦表(ファースティー・カピトーリーニ)の断片の記述が始まる前年である。




Lucius Aemilius Barbula
 ルーキウス・アエミリウス・バルブラ

貴族
祖父:Quintus
父:Quintus Aemilius Barbula(317執政官等)
息子:Marcus Aemilius Barbula(230執政官)
281 執政官(サムニウム)
280 執政官代行(サムニウム)
269 監察官

 前281年の執政官。
 この年、タレントゥム人はローマ側の使節であったポストゥミウスの和平の条件の提案を、下品な侮辱と共に拒絶した。ローマはエトルリア及びサムニウムと戦っていたためタレントゥム人との断交をできれば避けたいと望んでおり、執政官のバルブラに、ポストゥミウスがおこなった和平の条件と同じ提案をすること、および、もし彼らが再び拒絶したならばその都市に対して戦争を行うこと、という指示を与えてタレントゥムに向かわせた。タレントゥム人は、先の決断を固守した。
 しかしながら彼らはローマに対して自分たち自身を守ることができず、ピュロスの援助を期待した。バルブラは彼らの決断を知るとすぐに、最大の激しさををもって戦争を遂行し、開けた野でタレントゥム人を打ち負かし、いくつかの町を占領した。彼の前進は恐れられたが、彼が和平のために捕虜たちを思いやりをもって扱い、身代金なしにいくらかを解放していたので、彼の寛大な措置を期待して、タレントゥム人はローマ人の友であったアギスを無制限の権力を持つ将軍として任命した。しかしピュロスの信頼厚い大臣格の人物キネアスがほぼ直後に到着し、そのためその任命は取り消された。すぐにピュロス王麾下の将軍ミロンが王の軍勢の一部と共に上陸し、バルブラに向かって進軍し海岸の狭い道沿いに通って彼の軍を攻撃した。その道の端は急峻な山岳地帯で、タレントゥムの艦隊は、ローマ軍が行進して来たら矢を射ることができる様に準備して碇泊していた。もしバルブラがタレントゥム人の捕虜を前面に置くことによってバルブラの部隊を保護し、タレントゥム人の捕虜が敵の武器の最初の対象になるだろうというふうにしていなければ、その軍は恐らく撃破されてしまっただろう。タレントゥム人は彼ら自身の国の人間を傷つけようとしなかったので、バルブラは自軍を安全に導いた。
 バルブラはその執政官の期限が切れた後も、執政官代行として南イタリアで作戦を続けた。公職暦表によれば彼はサムニウムとサレンティニに対して勝利を得たが、公職暦表はそれらの人々に対して280年7月にエトルリアに対しての勝利と同じほどの勝利を得たと記録している。その後バルブラは、タレントゥム、サムニウム、サレンティニに対する勝利の凱旋式を挙行した。
 前269年の監察官職に関して特筆されるようなことはなかった。




Marcus Aemilius Barbula
 マールクス・アエミリウス・バルブラ

貴族
祖父:Quintus Aemilius Barbula(317執政官等)
父:Lucius Aemilius Barbula(281執政官等)
230 執政官

 前230年にマールクス・ユーニウス・ペラと共に執政官。その同僚と協力して、リグリア人に対する戦争を指揮した(ゾナラス、8.19)。ゾナラスが言うには、カルタゴ人がリグリア戦争のことを聞いた時、彼らはローマに対して進軍することを決意したが、両執政官が彼らの領域に来た時その企図を断念し、ローマ軍を友人として歓迎したという。これは明らかに誤りであり、十中八九、ガリア人に当てはまるに違いない。ポリュビオスによると(2.21)、ガリア人は、2年前の前232年に通過したプラケンティアを分割するというフラミニア法によって、この時大きな興奮状態にあったのだった。





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